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知識労働の時代

暗黒時代と言われた中世が終わりをつげ、科学信仰の時代に入った14世紀から19世紀にかけての500年間、地球上では世界中いたるところで権力を中央政府に集中させようという動きが続きました。  

そして20世紀の転換期を経て私たちは21世紀と言う新しい時代に突入しました。

そこでは新しい社会的機関が新しい役割を果たすようになり、16世紀に生まれた権力の集中や主権国家と言ったものは次第に意味を失いつつあります。    

 

私たちの社会は知識社会へ移行したのです。  

製造業やサービス業の人が、「私はモノを作っているだけ」だから、あるいは「私はサービスをしているだけ」だからと言って、その仕事の内包する知識労働の要素を軽視するのは、その仕事の持っている重要な次元を認識していないことになります。  

 

私たちの時代はもう産業革命の生み出した「モノつくり」の時代ではないのです。知識労働と言う付加価値をつけずに「モノつくり」にのみいそしんでいると「モノ」そのものが存在理由を失ってしまうか、価値をなくしてしまいかねないのです。そして、やがては競争力を失ってしまいます。  

 

戦後日本の象徴とも思われていた日本の大企業が現在大きな困難に直面しているのも、そうした時代の変化に応じて自己の中にあるパラダイムをチェンジするという作業に失敗しているからと言えましょう。    

 

カエルを熱湯の中に放り込んでやると、熱さのためにびっくりして飛び出してきます。ところが、鍋の中に水を入れてその中にカエルを浮かべて静かに熱してゆくとカエルはうだって死んでしまうまでのんびりお湯の中に浮かんでいるという事です。  

 

私たちの知覚・認識機能には、このカエルの現象に示されるような側面があります。己の意識や知覚は己の自由にできるという確信を捨てて、己の知覚や認識機能をよく自覚することがこれからの「知識労働の時代」に充実した人生を送り、ビジネスを発展させ、社会に貢献するためには必要なことです。    

 

知識や知恵と言うものは私たちが受け取る情報(その中には私たちが知覚する・・・つまりものを見たり聞いたり触れたりすることなど・・・という事も含まれます。)を処理して判断するという事から始まります。  

 

メディアの情報ですと、不正確なものやあるいは意識的に私たちの判断を操作しようとするものなどいろいろとあります。メディアの時代に生きている私たちはそれを十分に承知しています。   しかし、私たちは、現在目の前に見ているモノや聞いているモノといった私たちの知覚、あるいは私たちの頭の中に深くしみついている常識となると、それが正しいのは自明の理として疑う事はほとんどしません。「確信」しているといってもよいでしょう。   ところが、その「確信」が実ははなはだ根拠のない頼りのないものであることが多いことが分かります。      

 

次の「ネッカーキューブ」を見てみましょう。

 

左側の立方体を見ていると、その位置が右側の二通りの位置に見えるはずです。そして左側の立方体を眺めているとその位置が数秒おきにチェンジして見えるはずです。

これはあなたが、「よしこれから先は、右側上の位置のように見えると思おう」と心に決めても、あなたの頭はあなたをあざ笑うかのように、右側の上の位置と舌の位置を交互に見えるようにしてしまうはずです。  

もちろんこの描かれた図形が数秒おきに変化したりはしませんから、外界からあなたに達する知覚の刺激は常に同一です。したがってこの変化は、あなたの脳が外界からの知覚の刺激をキャッチしてその情報を処理して判断する段階で起こっていることです。   私たちの脳が、どちらの位置と判断するのか決めかねて交互にその判断を繰り返しているのかもしれません。  

しかし、問題は、あなたがあなたの意志で「この位置と判断する」とあなたの脳に言い聞かせても、あなたの脳はあなたの意志を無視して、この二つの位置の間を揺れ動き続けるのです。     私たちの知覚は、私たちが外界と言うものに対するイメージを形造るために本質的なものですら、私たちは正確に処理できないばかりか、私たちの脳が外界の現実とはかけ離れた形で処理しているかもしれないという事を必ずしも自覚していないという事です。私たちの脳が私たちの脳の中にそれまでの作り上げられたパラダイムに従って一番都合の良い解釈をして、その時点での私たちの意志や判断とは無関係に外界のイメージを与えてしまい、さらに困ったことには、そういった事実を私たちは必ずしも自覚していないのです。      

 

もうひとつ例をあげましょう。  

私たちは中学校の理科で盲点の存在と言うものを習います。目の網膜には100万本にも達する神経線維が走っていますが、この神経線維が集まっている網膜上の1点には視細胞が入り込む隙間がないために、網膜のこの部分に外部からの光が当たっても、私たちは外部の像を見ることができないのです。    

 

 

私たちの目は二つありますから、視界の全てを左右の目が補い合っていますから、外界のイメージのこの盲点の部分にあたるところにポッカリ穴が開いたりはしません。  

しかし右目を閉じて左目で次の図を見てください。      

左目で右側の十字を見ながら距離を調整すると、ある距離になると突然左側の黒丸が消えて見えなくなります。この時に黒丸は左目の盲点の上に投射されているのです。  

今度は図にある下のギャップのある黒線について、同じことをやってみてください。今度は黒線のギャップの部分が見えなくなるのではなくて、黒い連続した線になってしまうのです。なぜでしょうか?   盲点に投射された外界の図は見えなくなりますが、その見えない部分を私たちの脳は周りの状況を見て一番妥当と思われる形で(私たちの脳が今までに構成したパラダイムにとって一番妥当と思えるという意味です。)イメージを勝手に補っているのです。  

 上の図の黒丸の場合には、黒丸が盲点上に位置してしまえば、周りにあるものは真っ白な平面ですから、白で補うのが妥当と言うわけです。    

これは左側の黒丸の周りが黄色い平面の場合には、私たちの脳は盲点で見えなくなった部分を黄色で補います。もちろん子供のころから特殊な視覚経験を受けて育った人には別の現象が現れるのかもしれません。

次の図で確かめてみてください。    

 同様に黒い直線状のギャップが盲点上に来れば脳はそのギャップを補って連続した直線と考えるのが妥当と判断するのです。  

 

以上は私たちの知覚に関することでした。これと同じことが私たちのフィーリングや思考についても起こっているのです。その場合には外部からの情報に「欠けている部分」や「自分の確信に反する部分」があると、私たちの脳は私たちの脳に構成されているパラダイムに従って、一番妥当と思われる、あるいは一番都合の良い解釈をしてしまうのです。      

そしてこの「外界からの情報とは無関係に解釈が行われた」という事を私たちは自覚していないのです。  

私たちの持っている確信は「こうした外部からの客観的な情報」ではなくて、私たちの脳が自由に行う解釈によってより堅固なものとなってゆくのです。  

こういった私たちの生理的な制約や私たちの独断と偏見に満ちた「確信」に囲まれて私たちは生きているのです。 私たち自身はもちろんのこと、私たちの周りにいる人々もそういった「確信」を自分の全存在のごとくに大切にして生きているのです。それは、あなたの消費者であり、顧客であり、同僚であり、上司であり、部下であり、家族であり、友人であるのです。  

 

あなたは、このあなたの消費者、顧客、同僚、上司、部下、家族、友人、そしてあなた自身の「確信」を理解していますか?  

こうした私たちの「認識」に対する自覚や知識そして理解なくしては「知識労働」と言うものはあり得ないでしょう。      

 

読後チェック

①20世紀を境に、わたしたちの社会はどのような移行を遂げましたか?  

②知識労働の時代で充実した生を送るために必要な能力は何ですか?  

③あなたは、日常を振り返って、自分と他者の「確信」を理解していますか?