義と利- 山田方谷のことばから

2018年06月15日(金)一般教養 

幕末期に生きた儒家・陽明学者の山田方谷のことばから、義と利について考えてみましょう。

 

義と利- 山田方谷のことばから|ルシディチュード-灯台教養学部

 

ルシディチュード―灯台教養学部貨幣経済と人間関係

人類が貨幣経済と言うものを生み出してから随分時間がたつのですが、今ではその貨幣経済を統制して我々人類の幸福に役立てると言うよりも、その貨幣経済が我々の人生を統制しているというか毒しているような様相を呈しています。

国の政治も国際関係も我々個人の人間関係も何を根本に理解したらよいかわからないようになってきています。

お互いにその人の人柄や今までどう生きてきたかという生き様を基にして人相応にこうした世の中を理解することになるわけですが、我々はあまりにもそうした貨幣経済の線型的な価値観に毒されて生きてきたために、ともすると身近な人間関係にまで無意識のうちにそろばんをはじいて考えているのを発見します。

こうすることは得だろうか損だろうかと、こいつと付き合うことは得だろうか損だろうかなどと無意識のうちにそろばんをはじいている自分を発見します。  

 

しかし人間たるもの、本来は得だろうか損だろうかなどということではなくて、人たるものあるいは自分はこうなければならぬ、こうしなければならぬという、己のうちに義というものが深く根ざしていなければいけないのです。  

そんな甘いことを言っていたら、このきびしい世の中で鮫のような人たちに食われてしまうという人がいるかもしれません。

しかし自然や宇宙は自立的統一体として各個が他とあい関連して調和して全体が動くように出来ていますから、局所的にそろばんをはじいても必ずしも利にならないことが多いのです。  

 

ルシディチュード―灯台教養学部山田方谷が教えてくれる義と利

江戸から明治にかけての哲人で佐藤一斎の門下に山田方谷という人がいてこんなことを書いています。  

 

「今日ほど至れり尽くせりに経済の営まれている時代はないが、また今日ほど窮している時代もない。取れる限りの利は何でも取り、減らせるだけの出費は何でも減らすという風に、万事経済主義を実行しながら、蔵は空っぽで、負債は山のようにある。それはまだ知恵がたらぬのか、方法がまずいのか、どこかにぬかりがあるのか。

実はそうではない。何事によらず、良く世の中の問題を処理するものは、常に事件の外にたって、事件の中に捉えられない、事件の中に屈しない。

しかるに今の経済家は皆財の中に屈している、利に中に屈している、捕らえられている。要するに経済問題だけを心配し、日夜このことばかりを考えて他のことに気がつかぬ。

人心の邪悪、風俗の軽薄、官吏の腐敗、思想・教育等の堕落、こういうことをどうすることも出来ない。この点を突っ込むものがあって、何とかしなければならぬと、よい案を持ち込むものがあっても、決心の邪悪、風俗の軽薄、官吏の腐敗、思想・教育等の堕落、こういうことをどうすることも出来ない。この点を突っ込むものがあって、何とかしなければならぬと、よい案を持ち込むものがあっても、決まって予算がないと逃げてしまう。

これらの問題は政治の大原則であって、これなくして、枝葉末節をもてあそんだところで何にもなるものではない。この理をさとって、よく利益だの経済だのと言う。

物の外に卓立して、人心・風俗・官紀・生産・教育・治安等政治の大本を振興すれば、経済の道はおのづと通ずるものだ。しかし、このことは、よほど偉い人でないと実行できないだろう。  

財の外に立つと、財の内に屈するということはわかるが、とにかく目先の急場が財がなければなんともならぬ。それを財の外にたってほかのことを考えるなどは、怖ろしく非現実的ではないかと言う者が多い。

しかしなんともならぬと思われる場合ほど、何が正しい道か、己の欲かということを明らかにしなければならぬ。心あるものは、どうすることが正しい道であるかということを明らかにして、どうすることが利かと言うような考え方をしない。

政治を公明正大に行うことをもっぱら考えて、窮すると否とは運命に任せる。正しい政治をして窮するならそれも仕方がないのである。

しかしながら、利は義の和というではないか、正しくすることが結局利になるのである。その証拠に正しい政治をして貧乏を免れなかったものはない。それでもなお、この考えを非現実的だといって、別に経済の道があるというなら、現にその考えで数十年やってきながら、邦家の窮迫をますますひどくしておるのはどういうことか。 」

 

この辺のことは我々は、そんな馬鹿なといわずによくよく考えてみるべきですね。

公害の問題でも、マグロの取りすぎでも、企業や個人が食うためあるいは金を儲ける為に営むという考え方から脱してもよい時期に来たのではないかということも考えてみるべきです。

農業が自然の土を培養して作物を養成するという自然と人間の合作であり、漁業が魚を取ることではなくて、魚を養うことであるというやはり自然と人間の合作であるということを考えれば、経済と道徳、利と義というものが両立しないものと考えるのが如何にに愚かか分かると思います。

いかなる物質的生活問題も優れた精神、美しい感情、頼もしい信用などにまたなければ、本当の幸福につながりませんし、経済の安定、まことの成長というものにもなりません。  

この山田方谷という人の手紙がなかなか味わい深いものがありますのでさらに引用します。  

 

「今月の一日、私が役所に出かけておると、あなたが来られて、進むべくか退くべきかの道をお尋ねになった。しかし私は別段、即座にはお答えはしなかった。そして改めてまたの機会のお話にしようと申しておきました。

ところが、今月も終わろうとして、私はまだ家を出ることが出来ないでいるうちに、お手紙で再びお尋ねを受けることになりました。それでも尚答えをしない。はなはだいい加減にしているようで恐縮に存じます。しかしながら、私が直ちにお答えしなかったのは、時間を置いてから後からお答えするのではなくて、あなたにこのことを、そうそう人に問わないで、もっと自分の心に問うてそして自分の心を検する、検心の工夫をしていただきたいと思ったからであります。

人間の、ことに公人の進退というものは、ただどうすることが義かといことによって決まるものです。義の問題も立ち入って申しますと、心にあって外に現れた形、すなわち迹にあるのではありません。

形式や表面の問題ではない。内面の心の問題だと言うのです。人が知り得るのは外に見える形だけで、心がどうかと言う点になりますと、自分で自分の心に問うのでなければ、誰に分かるでしょうか。しかしどうすることが義かという、この問題と、おのが心に問うということは、どうしてどうして決して生易しいことではありません。心にも本心もあれば私心もあります。わが本心を見ることが出来ないで、これを私心に問いますと、どうしてもいくらか妥協して利己的になってしまうでしょう。 そこで私心を去って本心を見るのには、それこそ検心の工夫よりほかにありません。心を検するということを工夫するよりほかにありません。

今日の問題も、あなたがまず自分の心を検して問うてみることです。あてにならない自分の気、すなわち客気というものがもう消えうせているかどうか。人に勝とう勝とう、人を凌ごうという勝心がもうやんでいるかどうか。また何ということなく、人が肝にさわるような気持ちが自分の心の中に残っておらないかどうか。またさらに、もっともっと内心を調べて、ただ公あることを知るばかりで、わが身のことなど果たして考えていないという境地に至っておるかどうか。ただ自分の地位・職分に応じて、よく献身的努力を果たして尽くしておるかどうか。  

こういう、おのが内面、おのが心中を調べた上にもよく調べてみて、しかも尚、まだ自信がなければ、これを古聖賢の教に問うて、そして自信をお付けなさい。これまた一層の工夫です。

そもそも進退の義というものを古聖賢の教えに求めますならば、書経の商書の中の自靖と自献、この二つの言葉より適切なものはありません。ただ古典のこういう言葉は、簡単で含蓄が非常に深いものですから、なかなか容易に解釈し、会得することが出来ませんが、しかしながら細かに玩味いたしますと、この二つの「自」と共に、要するに、おのが心に問うという意味より他にありません。靖んずと言い、献ずと言うのも、検心の工夫がなければ出来ないことであります。  

結局、客気ももはや消え、勝心ももはや止み、すなわち人に勝とう勝とうというような心も止み、気まぐれも消え、人が肝にさわる気持ちも心に残らぬようになってこそ、自靖の靖の字を良く実践することが出来ます。

ただ公あることを知って、おのが身、私があることを知らず、ただその地位・職分に応じてよく真心を尽くせてこそ、検心も、自ずから献ずるというその献を良く実行することが出来るのであります。

私が直ちにお返事をしないで、今日まで延引して参りましたのは、実はあなた自身の工夫がよくここに至って欲しかったからなのであります。あなたの工夫がはたしてよくここまで来れば、今日のこと、進むもまたよろしい、退くのもまたよろしい。必ずしもその外に現れる形・姿・迹には拘泥しないで、しかも古人の教えに自ら合致するでありましょう。私が何を申し上げることもありましょうか。あなた自身でよく決定することの出来る問題であります。」

 

 

読後チェック

①山田方谷とはどのような人ですか?

②山田方谷が進むべき道を聞かれたときにとった態度とその理由は何ですか?



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